滝山城主 北条氏照

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NPO法人 滝山城跡群・自然と歴史を守る会

滝山城と北条氏照

多摩の二大勢力


相模の小田原北条氏が武蔵地方への進入を開始したころ、多摩地方には二つの勢力が存在していました。由井領の大石氏と勝沼領の三田氏です。多摩の南側を大石氏、北側の青梅から奥多摩にかけての山岳地帯が三田氏と考えればよいでしょう。小田原北条氏は、氏康の三男氏照を多摩地方に送り込みます。氏照の当初の名は由井源三です。このことから大石氏の由井領を名実ともに手に入れていったようです。最近の研究から(斉藤氏「江戸東京博物館」)、由井は八王子市弐分方あたりの地名で、その近辺にある浄福寺城が由井領支配の本拠であったことが明らかになりました。氏照は大石氏の本拠だった浄福寺城に入城したのです。次の仕事が山岳地帯に勢力を持つ三田氏の攻略でした。この三田氏はもとは関東管領上杉氏の配下にあって勢力を保持していました。ところがその関東管領上杉氏が小田原北条氏によって関東から追い出されると、三田氏は孤立して氏照の猛攻を受け滅亡してしまいました。こうして多摩地方の二大勢力を押さえ、やがて氏照は滝山城に移って北関東への侵略を開始していきました。


軍事的要衝としての滝山城


小田原北条氏によって関東から追い出された関東管領上杉氏は、越後の長尾景虎(後の上杉謙信)を頼って越後へ逃亡します。管領上杉氏の名跡を継いだ上杉謙信は、管領上杉氏に頼られた事情から北条氏攻略に乗り出し、越山して関東地方に侵行しました。永禄四年(1561)の記録によると、謙信は多摩地方に軍を進めると相模の当麻に陣取りました。当麻は当時の河越道沿いにあって当麻宿とも呼んでいました。このことから、謙信は小田原に通じる河越道を南下し、多摩川を渡って尾崎、片倉、杉山峠(御殿峠)、橋本、上溝、そして当麻宿に陣取りしたことがおおよそわかります。多摩川を渡る地点は、他の記録から八王子市平町の「平の渡し」であったことが考えられるのです。平の渡しは滝山城の東方2キロメートルの地点にありました。河越道の渡河地点という軍事的な要衝と滝山城がセットになっている様子が浮かび上がってきます。江戸時代には徳川氏も利用したようで、渡し場跡近くの大蔵院にはそのときの伝承が残っています。


滝山合戦


滝山合戦というと、甲斐の武田信玄が攻めてきた永禄12年(1569)の合戦をいいます。滝山城の対岸、拝島の森に武田信玄本隊は陣取りました。別働隊の小山田信茂は、当時予想もしていなかった小仏垰を超えて乱入しました。武田本隊は平の渡しから多摩川を渡り城下の村々を焼き払い滝山城を裸の城にしました。城内からは滝山宿(滝山街道沿い)に兵を繰り出し防戦にあたってようです。なんとか落城は免れたものの、合戦から様々なことを学び、やがて甲州道を直接監視する八王子城に移っていきました。滝山城下の商業的な場であった滝山、八日市、横山も八王子城下へ移っていきました。移動時期ははっきりしませんが天正15年(1587)ごろと考えられます。